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GIDEON STAFF BLOG

京都散策(その4)「最終日」

 蹴上浄水場のツツジは、ゴールデンウィークの期間限定で公開される。ツツジのトンネルの中は花びらの万華鏡のような光景でしばし足が止まった。
京都は水も美味しい所で、会場では水の飲み比べイベントが行われていた。
(1)京都の水道水 (2)ペットボトル入りの日本の名水 (3)ペットボトル入りの海外の名水の内、美味しいと感じる水に投票するのだが、私自身も含め多くの人が京都の水道水を選んだことが意外であった。

 蹴上浄水場からしばらく歩くと金地院に着く。ここの庭は格別だ。南禅寺の近くだが、訪れる人は比較的少ない。この庭でしばらく休息して足を休めた。普段の不養生のせいで、数キロの二足歩行がきつい。

 金地院の方丈の間には、狩野探幽の手長猿が描かれた屏風がある。部屋の電灯を消して屏風に目をやると、猿のリアルな姿が浮き上がってくる。また、庭に敷き詰められた白石は、石にあたった光の反射を室内に取り込むための工夫と聞く。電気のない時代の暮らしが偲ばれた。 

 八窓席という茶室はお忍びの場というにふさわしい。政治家たちが料亭で会談するのと同じく、茶室で重要な政事について会話がなされていたのかもしれない。政治、芸術、伝統文化をかい間見る瞬間である。

 旅の締めくくりに永観堂に立ち寄った。新緑のモミジが鮮やかだった。連休最終日ということもあり観光客はまばらで、じっくりとアングルが取れる。新緑のモミジに混じり紅のモミジ、それに満開のツツジの花が重なり合い実にコントラストが美しい。

幼稚園が隣接しており、園児は毎朝9時から10時の間は、庭で遊ぶそうだ。年中行事にお茶会がある。日常の中で自然と教えに触れることができる最高の環境とも言える。そんな環境をズーッと保っていって欲しいと思った。

京都散策(その3)「受け継ぐ人」

 たまたま、上賀茂神社の神事に出会うことができた。下賀茂神社の流鏑馬(やぶさめ)は有名だが、上賀茂の神事である賀茂競馬(かもくらべうま)というのは見るのも聞くのも初めて。朝早く宿をでて、上賀茂神社に着くと放送関係者が集まっていた。何事かと聞いてみると、年に一度の賀茂競馬の当日だった。

 早朝より様々な儀式がとりおこなわれ、昼過ぎからこの競馬が始まる。現在では、調教された競争馬に乗っているが、昔は農家の馬を使っていたので、観客席に突如馬が飛び出てきたこともあったという。自らもかつて騎手を経験し、60年間この行事をサポートしてきたご老人の言である。

 代々、競馬の騎手(のりじり)は神社の神主の家系の男性が勤めているそうだ。今回最年少の騎手はなんと中学2年生で、2度目の参加という。老練の騎手に劣らぬみごとな乗りっぷりだった。次世代への継承の思いが込められていた。男系の子孫がいないとこの先どうなるのか、少子化の影響で行事が失くならぬよう願うばかりだ。

 神様が競馬をご覧になり十分堪能されると、帰っていかれる。5本の矛が倒されたことが神様がお帰りになったサインだそうだ。なんとも古式ゆかしき行事である。この行事が922年にも渡り受け継がれてきたことが驚きだ。地元の人々が延々と継承し続けてきたことに頭が下がった。

京都散策 (その2)「仏頂面」

 三室戸の平戸ツツジは、なんともすばらしい。一面大木のツツジが大雲海のごとく咲き乱れる。朝に少し雨で湿った花びらが、キラキラと光を反射する光景に驚かされた。カメラで多くの花の景色を収めるものの、この神聖な空間ならではの雰囲気を伝えるのは難しいと感じた。

 平等院の藤の花がすでに終わりかかっていて、藤と平等院のショットは諦めた。その代わりに珍しいほうじ茶そばや、一昨日の八十八夜(5月2日)の新茶をいただいた。新茶は甘くて、コクがあり、苦味が一切ない。「お茶を楽しむ」という意味を舌で納得した。

 三十三間堂には、多くの仏像が並ぶ。梵天さんは手前奥の控えめな場所にいるが、観光案内の写真に使われている有名な仏像。ゾロアスター教、ヒンドゥー教、バラモン教にその源とする仏教が、日本に来ると整然と整理され、体系づけされたような気がした。仏頂面(ぶっちょうづら)と云う言葉も、元々は仏様の頭頂(仏頂)を語源としているらしい。日本語の語源が歴史と深く関わっていることを新たに知ることとなった。

 京都博物館は、歴史の教科書だ。雪舟の有名な達磨さんの水墨画に出会った。百聞は一見にしかず。やはり見ないと、感じない、伝わってこない。これだけよく収集したものだと感心した。京都は、町全体が歴史を遡ることができる希少な場所であることに嫉妬すら感じる。

京都散策 (その1)「筍づくし」

 洛西の竹林公園は、ゴールデンウィークにもかかわらず、訪れる人も少なく、澄み渡るウグイスの声(初めてその姿を見た)を聞きながら、竹林の茂みでひと時を過ごした。亀甲竹(亀の甲羅の模様がある)、金明孟宗(黄金色の竹)など珍しい竹が約110種類もあり、さながら竹の博物館のようである。この公園内にある川に架かる百々橋(どどばし)は平安時代からのもので、応仁の乱など戦国乱世を超えこの地に置かれている。ちょっとした風景に歴史を遡ることができるのも京都ならではだ。

 少し下ると、正法寺(しょうぼうじ)がある、このお庭がたいそう良く、まるで龍安寺の石庭を眺めているようで、さらに滝と池に通づる景色が見事である。春はその新緑の中に赤、白、ピンクのツツジ、新緑のモミジ、赤のモミジ、紫のカキツバタと色とりどりの花がすがすがしい風に遊んでいる。京都の風情はなんとも贅沢である。古からの仏の教え、美しい庭、歴史的な造形、さらには背景にある山々を借景にした空間、時間の広がりに時が止まったかのように穏やかな静けさを満喫できる。この庭を愛でながらお抹茶をいただき、とてもありがたく感じた。

 さらに足を延ばすと、乙訓寺(おとくにでら)に着く。今年は少し開花時期が早く、咲き終わったボタンを庭師が刈り取っていた。このお寺は聖徳太子の時代からのもので、空海と最澄が密教について法論を交わしたという記録がある。遠くインドから中国に高僧が伝え、さらに中国から日本へ伝承した空海が最澄に伝授したらしいが、解釈が異なり真言宗と天台宗に分かれていったのが、約1200年前のことである。過去を遡り原点が見えてくるのかもしれない。宗論はどちら負けても釈迦の恥。

 古都長岡京の地で、筍づくしの料理を賞味する。料亭が所有する竹林で朝に採った筍が振る舞われる。真っ白な無垢な筍は、全く苦味がなくお刺身で味合う。先付けに始まり十品あまりすべて筍づくしだが、飽きることもなく美味しくいただいた。唯一、最後に出た水菓子が筍でなかったのが残念。

福袋(春の贈り物)

100本のチューリップが見事に咲いた。
色とりどりに咲き誇るチューリップの彩があまりにも鮮やかだ。

今年の1月に園芸店の店頭にあった福袋。
チューリップの球根100球でで千円という驚きの価格に衝動買いをした。

さすがに100個を植えるのは骨が折れた。
狭い庭に所狭しと次々に並べた。かなり窮屈な間隔なので、伸びやかに育たないのではと心配した。

数回の冬の朝霜を経験したが、4月に入ると花を次ぎ次ぎにつけた。学校の花壇ではよくみかけるチューリップが我が家の庭に咲いているのがちょっと不思議に感じる。

咲き終えるチューリップには、追肥と乾燥作業があり、来年にまたお目にかかることができるという。毎年地味な作業が増えたのが大変だが、来年のお花畑を想像するとワクワクする。